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つりがね草

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ある夜の出来事

リビングのカーテンを開けると、するりと冷えた空気が足元に流れこんできた。
じわりと、外の気温が窓から染みこんできたように、私の体温を奪っていく。
それと対照的に、部屋の明かりは窓から漏れて、庭の暗がりを切り裂いていた。
四角く照らし出された芝生には、私の長い影が無表情に張り付いている。

そして、そのまま窓から見上げると、夜空にはのっぺりとした一様の壁があった。
――闇だ。
星の灯火も、月の明かりも何もない、完全な闇だ。
宇宙に広がる闇とは違う、こちらを押し潰してきそうな圧力を感じる闇がそこにあった。
「ふむ……」
きっと空には厚い雲がかかっているのだろう。
ああこれは、もしかしたら、本当に――
「本当に雪が降るのかもしれないな……」
そんな言葉が口からこぼれる。


「あら霙ちゃん――明日は雪なんか降らないわよ?」
そんな私の独り言に海晴姉が返事をした。
空へ向けていた視線を切って振り返ると、海晴姉はソファに深く腰掛けて、
のんびりとお気に入りの雑誌に目を通していたようだった
「確か……『東京上空には雲ひとつ無い、綺麗に透き通った青空が広がるでしょう』だったかしら」
そのまま、わざわざテレビ用の声を作って海晴姉は言う。
――職業病だろう、天気のことには口を挟まずにいられないのだ。
「ふむ、でも分からないぞ?なんせあの――」
「夕凪ちゃんがいい点取ったからでしょう?90点台だなんて……夕凪ちゃんもやるときはやるわね!」
これで勉強が好きになってくれると嬉しいんだけど――と、海晴姉は少し嬉しそうに苦笑して。
「でもだからって雪が降るとは限らないでしょ?それだったら日本中毎日雪じゃない」
夢の無いことを言う……
だが、まあ、つまりはそういう事だ。
あの夕凪がテストでめったに取らない良い点を取ったから、「明日は雪かもしれない」と言うこと、それだけの話。

それでも――家の中は大騒ぎだった。
夕凪はテストの答案を持って、あちこち走り回っては目に入った家族を捕まえて自分の点数を自慢していた。
むろん私にもだ。
今日は取っておきのどら焼きでもおやつに食べようかと思いながら家に帰ると、
夕凪が走りこんできて「霙お姉ちゃん見つけたっ!」って叫んで、何事かと思ったら――それだ。
最初に見た時は流石に吃驚して、夕凪の頭を撫でてやった……が、ああ何度も見せられてもな……
でも、あれだけ自慢してて嫌味っぽくならないのは一種の夕凪の才能だろう。
もし氷柱だったら、こうは行かない――

話が逸れた。
私が雪が降るかもしれないと思ったのは、夕凪のテストがあったから。
根拠も何もあったものじゃない――
むしろ色々裏付けのある海晴姉の言のほうが信用できるだろう。
しかし、私はまた――夕凪のテストの点数にも奇妙な信頼を抱いていた。
今まで起こらなかった事が起こりそうな、そんな気がするのだ。

「海晴姉の言っているそれは――あくまで予報だろう?」
「まあ……そうね」
海晴姉は雑誌を閉じて、私に目を向けた。困ったような、不服そうなそんな表情をする。
「なら外れる可能性だってあるはずだ、私は明日は雪が降ると思う」
「ふぅん……じゃあ、賭けてみる?」


「――乗った。何を賭けるんだ?」
「うん……えっ、ほんとに?」
「なんで持ちかけた方がそんな意外な反応をするんだ」
「だって……ね?」
そう言って海晴姉は横を向いて、たった今リビングに入ってきた妹に同意を求めた。
その視線を目で追う。
「――賭け事は良くないですよ?」
「聞いてたのか」
そう言って私達をたしなめたのは蛍だった。
手には銀の盆を持って、その上には麗が壊してしまった代わりに新しく買ってきた、海晴姉お気に入りのティーセットが並んでいた。
カチャリと陶器の小さな音が聞こえ、部屋の中に淹れたばかりの紅茶の芳しい香りが広がっていく。
お茶が入りましたよ、と蛍は紅茶を給仕して、
ありがと蛍ちゃん、と海晴姉はカップを受け取る。
――私もテーブルに付くとしよう。
「大丈夫よ蛍ちゃん、絶対に私が勝つから」
「それでもです!――えっと、それで、何で賭けてるんですか?」
「明日の天気」
「……」
「ね?」
「はい……」
――何だ何だ。
海晴姉は勝ち誇った、満足したような表情で美味しそうにカップを口元に運び、
蛍は気の毒そうな顔で、ちらりと私を見た。
なんだか――癪にさわる。
「――何を賭けるか決めてなかったな、私はどら焼きを賭けよう。取っときの奴だ」
「えっ、それじゃあ霙お姉ちゃんの折角のおやつが無くなっちゃうじゃないですか」
「賞味期限切れなんか出してきたら逆におやつ抜きにしちゃうんだから」
「二人とも失礼な……それで、そっちは何を賭けるんだ?私は秘蔵のを出したんだからそっちもそれなりのものじゃないと困る」
「そうねぇ――じゃあ私もどら焼きにしようかしら、それも新しく買ってきてあげる♥」
「ふん――高いのを買ってやるから覚悟するんだな」
「はいはい」
何を買わせようか、駅前のあれじゃあもったいない。ここは遠くまで足を運んであそこの――
「……えっと、その」
「――何だ?」
「あの……おかわり要りますか?」
「いただきます」
「頼む」


(おわり)

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